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2013/03/15

自覚すれば利用できるはずなのだけど……

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ソーシャル()な方面では感情のままに書き散らかされる文字の羅列に疲れるコトがある。
喜怒哀楽で言うならば特に怒哀の部分、これが当事者以外にとってみれば重たかったり
反発したくなるような内容だったりするようなのが流れてきて、辟易してしまうのだな。

また残る喜楽の部分に関しては舞い上がった後の反動が怖いとかその程度なのだけれど、
ヒトビトが盛り上がってるトコロに上手くノれない性質だったりすると見ていて疲れる。
というより疲れたり辟易したりしてから気持ちの中身を探ってノれなかったのだと知る。

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多くの場合ヒトは自身の感情に流されたり突き動かされたりしてから、ようやく気付く。
無自覚であるがゆえに純粋というか素朴ではあるのだけれど自覚がないのは困る場合も。

よくあるのが、「理屈ではそうだけど気持ち的に納得する気はないよ」といったのとか、
「相手が自分の望んでる結論を出してくれなきゃヤダヤダ」的な心理とか、そういうの。

これらに自覚がないまま異なる意見・感情を持つ相手と対話なり議論なりをしていても、
どれだけ言い合っても腑に落ちたりしないどころか次第に焦燥が溜まっていってしまう。

そうして行き着く先は、「何だか分からないけどアイツ嫌い、苦手」といった負の感情、
そこに自覚できなければ、どれだけ相手と言葉を交わそうとも払拭できはしないだろう。

だから違和感を覚えたら躊躇わず感情の内容を精査して、そのバイアスを避けるように、
自分の語る内容が本当に自分が求めている方向なのかを自問するといいのかもしれない。

感情の中身というのは、そこに動きがあったときにこそ、自覚できるというものだから。
(とはいえ軸が振り切れてしまうくらいの感情だと少しくらい動いても自覚は無理かも)

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