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2013/05/04

屋根より高いトコロからは何が見える

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ただまあ自分のコトに触れられたがらない性質ってのはあるかもしれない。
でもそういう感覚は誰にでも多かれ少なかれ根強く持っているものだろう。
残念ながら自分自身について考えるのに費やす時間は自分自身が最も多い、
だからどうしても他人からの意見が的外れのように聞こえてしまいがちだ。

ここ数年の動向でいえば「専門家なんて信じられない」と強硬に主張する
“素人”がソーシャル()で幅を利かせマスメディアや実際の政治にまでも
影響を及ぼすようになってきているように思えるが、でも“素人”たちが
専門家と比べてどれだけの時間、その対象について考えているのだろうか。

その道何十年の専門家にしてみれば、「もう何度も考えたが実質的に無理」
と考えているようなのを素人がドヤ顔で押しつけてくれば聞くに堪えまい。
ところが善意で提案したつもりが聞き入れてもらえなかった素人としては、
「専門家は傲慢、いや国家の陰謀に荷担してるのか」などと考えてしまう。

当人と周囲の助言者の関係の中にも似たような状況があり、ただ専門家は
専門家どうしの議論で思考するのに対し、当事者はそうとも限らないだけ。
そういう点で言えば、“当事者”については専門家よりも周囲の声などに
もっと耳を傾けた方が良さそうなものだが、むしろ実態は逆な気がするな。

ハナシが逸れたが、いずれにせよ視点の違いというのは誰が誰に対しても
言葉を掛ける/受ける際に意識しておいた方が望ましい、とは思っている。
同じ対象を見ていても違った見え方のはずなのだ。相手からどう見えるか
少しくらいは想像して、その上で役立つかどうか考慮して判断したいもの。

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一方は「仕組みを理解しなくても実利だけ求めて利用する」といった感じ、
他方は「仕組みは分からないけど損得両方あるんでしょ」と控えるような、
両方の祖母は、そんな感じでヨノナカのいろいろなモノゴトに対していた。
せっかく両極端な考え方が身の内にあるのだから、両方ともに活かしたい。

ヨノナカ大概どちらか一方に偏るコトはなく、その間あたりを往くものだ。

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