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2013/07/23

正義の限界についての話をしようか?

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正義は味方ではない、ただ悪を倒す力だから許容されているのみ。
むしろ平時にはリスクやコストの都合から敬遠される程度のもの。

実際、正義が蔓延ると、ロクでもない人物が幅を利かしたりする。
自分の善意の正しさを疑わず誰もが当然受け容れると信じるのに
他人の善意を信じるコトができず、あらぬ悪意を見出したりする、
たとえばそんな連中。嬉々として地獄への道を善意で敷き詰める。

おそらく、思いやりというか協調性というか他者の善意や正義と
折り合いをつけるような知恵が伴わなければ、そうなってしまう。

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それだけじゃない、正義というのは、より厄介なのがついて回る。

たとえば政治において、金銭欲に関しては、様々な規制や、日本
においては清貧志向のようなのがあるので割と抑えられているが、
「正義の怒り」とか「義憤」などに根差す欲求には歯止めがない。
また承認欲求というか名誉欲のようなのにも、やはり抑制がない。

正義感は賞賛されるべき、という空気はヒトの間に常に存在する。

しかし正義漢を支持する者たちの中には特定の個人を英雄視して
勝手に御輿にして祭り上げ守ろうと攻撃的になる者も少なくない。
よほど善良な御輿であっても、気付けばソレに乗って標的を叩き、
取り巻きの賞賛を集めて満足するようになってしまう危険がある。

このような流れは群れる動物としてみれば極めて自然なコトだが。

しかし当然ながら社会を営む人類としてみれば社会の中に異質な、
そのうえ排他的で周囲に不測の損害を与えかねない危険な存在を
どの程度まで社会が許容できるかという問題になって現れてくる。
より大きな集団に害を為す排他的小集団は排除ないし懐柔の対象。

どっちが勝ったにしても、かなりの損害と禍根を残す結果となる。

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