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2013/08/26

「裏を取る」というより「裏を読む」のが面白い

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そういう“現実”の認識というのは、科学的あるいは経済合理性の
面では妥当性が疑われたりするけど政治的には正しいのかもしれん。
とはいえやはり、政治なら政治として認識し語ってほしいトコロだ。

つまり科学的な話題なんてどうでもよくて政治的に問題視したいの
だけど表現力の限界だとか、そもそも当人が感じている問題意識を
明確化できていないなどで、科学っぽく見える話題になってしまう
ようなコトも多いんだけど、実は極めて政治的な話題だったりとか。

まあよくあるハナシ、「正義に溺れる者は藁のような情報にも縋る」
というのが実態なのかもしれないとも思う。自身の持つ不快感とか
嫌悪感のような感情を自分で処理しきれず、善悪の軸の上で確実に
優位に立てる対象すなわち悪を見付けては叩いて発散させたりする。
けど正義の実行が目的ではないので途中から道を外れてしまいがち。

そんな“現実”に沿った正義ごっこの相手をさせられる方にすれば
堪ったもんじゃない。要求を呑めば収まるかと思えばそうでもなく、
別なトコロで非難するか更なる要求を積み上げるのが関の山である。
もちろんそういう圧力なんか誰だって相手をしたくない、そもそも
圧力を吸収したり押し返せる余裕などほとんどないのだ、仕方なく
事前に察して対処してみれば今度は逆方向の正義からの圧力を招く。

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ああ盛大にハナシがズレまくってしまったので強引に本題に戻そう。

「その媒体が語らぬコト」を考えるのはフィクションに限らず重要。
新聞やTVニュースなどは横並びで報道してるので比較が容易だけど、
そうでなくても、たとえば対象が個人であっても同じコトだと思う。
(これは昔、様々な機器のカタログを読み漁って身に付いたのだが)
それゆえ、いろいろな人がいろいろ可能性を語るのは大事だと思う。

一方で「皆が言いそうなコトは敢えて言うまい」という考えもあり、
発信するより桁違いに多い情報を集めて眺めて、いろいろな可能性
など考えて、「いろいろな人がいろいろ語る」パターンを想定する。
相手が何をどのように見ているのか、その視界の範囲を知らないと
対話だって見当違いの方へ飛んでってしまうから、そうせぬために。

ちょっと引いた視点が性に合うので、そういった考え方をしている。

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