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2013/09/07

消極の秋?

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まあしかし、そんな活動そのものが目的かの如き運動を
続けていられるくらい社会の中に余裕があって彼ら自身
にも余裕があるっていうのは、まだマシなのかもしれん。
(自分に余裕がないから羨ましい、という気持ちも若干)
いや歴史上を振り返れば、本当に余裕なくなった群衆が
集って暴走する例などもあったりはしたけど、今は違う。

何らかの祈願を掲げた行列とかそういう宗教的な風情も。

この問題を司るナニモノかがセカイのどこかにいるはず、
でそこに意志を届ければ何とかしてくれるという感覚か。
科学以前には神仏だとか妖怪とか悪魔とかそういう諸々
あったし、貨幣経済になれば蓄財は悪とされ、それから
何かにつけ政治体制に対する非難とかもあったし、近代
以降になれば科学は悪だ、みたいな空気は一部に根強い。

いやまあ科学と宗教の対立とか言い捨てるのもアレだが。

※なお、ここで言う「科学」は科学に関する知識でなく
科学の発展に不可欠な姿勢そのもの、すなわち仮説検証
プロセスを繰り返して少しずつでも実態に迫ろうとする
その態度のコト、一方の「宗教」として書いた側は何か
特定の宗教をイメージしたものではなく宗教の負の側面
として現れやすい教条主義的な考え方を指すものとする。

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でも外から見てれば「何とかしてください」的な無責任
というか責任転嫁なのではないかという気もするけどな。
ましてやそれを最底辺がやるならともかく活動する余裕
のある中間層が積極的にやるというのは逃避行動だよね。
悪人ではない、やれるコトはやってる、というアピール、
より上位(と彼らが思う対象)になすりつけているだけで。

そういう意味では階層間の紛争の如き様相にも思えるが、
今の先進国では中間層こそが数の上で最大の存在であり
活動次第で大きな効果を発揮するはずの存在なのだけど、
その中間層が実に広がりすぎて全くバラバラの方向性を
持っているため中間層の中での利害対立を調整するのも
儘ならず支持を広げられぬまま立ち消えているのだろう。

結局ヨノナカを変えるにも少しずつしかできそうにない、
他のクラスタに同調を求めるなら共通する利害を見出し、
いや作り出してでも仲間に引き入れる覚悟が必要なはず。
そのためには先ず自分たちから責任を引き受ける姿勢を
示しつつ、目標さえも必要に応じて(より大きな枠へと)
切り替えたりして、味方につくメリットを提供しないと。

まあそういうコトをやると同調圧力だとか多数派工作だ
なんて言い出して纏まらなかったりするんだろうけどな。
けどそんな感情なんてのは個人の好みの問題に過ぎない。
感情を曲げるコトを頑なに拒み続け自己満足に終わるか、
必要に応じ自分から変わっていって結果をモノにするか、
それはやっぱり、一人ひとり個々人の選択なのだろうよ。


本当に大事なコトの前には自分の感情など屁でもなかろ?

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