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2013.10.01

兵どもが夢の跡が残った理由?

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さて10月になったのでそろそろ本格的に出歩こうと考えている。
(予定とかではなく単なる希望でしかないけど気分的には大事)

出掛けるとなると行き先が重要、新鮮な体験を期待したいので
行ったコトのない場所に行く、あるいは行ったコトのある場所
でも異なる季節や天候だったり、他の人を連れて行くなどする。

今回は、2~3年ほど前から気になっていたジャンルの拡大版で、
武州比企中世城塞巡りをしようと松山城と小倉城に行ってきた。

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近年になって発掘が進んだり、史跡としての整備が進んできた
とはいうものの、江戸時代に雑木林として使われたりした上に
中世の遺構は人気が乏しいせいか大した予算もないのであろう、
もともと天然の丘に堀割や土塁を設けただけなのが再び自然へ
還りかけたような場所に、細い踏み分け道が急斜面を登るのみ。
高低差は戦闘において大きな力となる、この斜面を登りながら
攻め込むのは非常に困難で、上からは容易く守れるに違いない。

川の屈曲部など自然にある地形を利用して守りを固めるのが砦。
そういうのを作りやすい地理的条件が比企あたりには多かった。
かつ当時は守る対象が入り組んだ丘陵地帯にこそあったはずで、
後の大大名ほどは労働力を動員できない中世領主たちにとって
荒川など大河川の氾濫原では安定した農地運営が非常に困難で
浅く広い谷間の森林と河川こそ田畑を維持し生活するのに適す。

天然の要害ではあるが大軍に包囲され孤立すれば勝ち目は薄い。
籠城できる兵力は数百か、せいぜい千そこそこの規模であろう。
より大きめの(河越や忍、厩橋など後々まで使われた)城の間に
中小規模の砦を連ね相互に支援し合うのが基本的な戦術のはず。
そういう条件でこそ役立つ仕組みが、戦国末期まで残っていた。

気付けば天下統一の時代、周囲の情勢は一変していたのだった。
相州や武州を中心に残っていた城塞ネットワークは、いずれも
戦国末期、秀吉小田原征伐の際に陥とされたり降伏したという。
もちろん銃砲の発達も影響しただろうけど最大の要因は物量だ。

天下取りとは、多数の大大名を束ねて桁違いの物量を動員する
体制を確立するコトに他ならない。その圧倒的な物量にモノを
言わせて各個に攻められれば、中小の砦などひとたまりもない。

続く太平の時代には、むしろ交通や通信が身を守る術となった。
川越など江戸期にも城として使われた地は広くて低めの台地上。

中世城塞の多くは使いづらいからこそ残ったとも言えるのかも。

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