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2014/04/30

「モノガタリ」需要

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「可能性はゼロじゃない」なんてのも言い始めたらキリがないハナシ。
具体的にソレがどのくらいの頻度で生じるのかを見極めていかないと。
だけど、そういう見積もりはコツが要るし、どうしても誤差が生じる。

こうした頻度とか確率のようなのを意識しておくコトが望ましいのは、
様々な局面に及ぶ。たとえば読んでいた本には、こんな記述があった。

「そうか、難破船は積荷を詳しく報告せねばならないのか。物事がまともに進んでいるときはあまり資料は残らず、事故があったとき、アブノーマルな事態が起こった時に資料が残るという原則は、難破船の資料でも言えるのか」(大庭脩「漂着船物語 ―江戸時代の日中交流―」岩波新書)

江戸時代に中国から輸入された書籍について調べていた筆者が数々の
資料を当たっていく中で、正規に出入りした船の積荷に関する記録が
あまり残されていない一方、難破して長崎以外に漂着した船の記録の
中には積荷の情報が詳細に記されている場合が多い、と発見したのだ。

さらに筆者は交流先の国にこそ情報が残るという傾向にも触れている。
その国にとっては日常でしかなく、さして重要とされぬ情報だからだ。

「当たり前のものは史料に残らないという原則を考えれば、中国のものは中国にではなく、日本やヨーロッパに残るし、日本の長崎の風景はオランダやスウェーデンのヨーテボリに、また、広東十三行や広東港の絵、ホン・マーチャントすなわち外国貿易に携わる広東商人の肖像も、欧州の博物館にはたくさんあるのに中国ではみられないことでもわかるはずなのだ」(同書)

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イレギュラーなデキゴトは人口に膾炙しやすい、そしてさらに言えば
イレギュラーなデキゴトに遭遇した人物のモノガタリは語られやすい、
故に記憶に残り記録にも残りやすい、そういうコトは往々にしてある。

「四方に海を還らしている日本列島では、海難は終始起こっている。日本から出てゆく船も、日本をめざして来る船も、目的地に到着できずに漂流し、目的地以外に漂着する。その間の生命を危うくする厳しい体験と、そこからのめでたい生還、ふだんは想像もできない異国の風景や習俗との珍しい出会い異文化体験などを綴った漂流記は、そうであるだけに人気が高い」(同書)

まあヒトの知性というのは想像力に立脚するところ大であるからして、
「自分自身の身の回りの現状およびその延長線上から外れた領域」に
強く興味を示すのは当然といえば当然、だけど発生頻度は無視される。

つまり語り継がれるモノガタリというのはレアケース、と考えてよい。
もちろん、先に挙げた難破船の積荷の資料などは、異常な事象の記録
として好事家のみならず当時の行政組織が公式に残したものもあるが。

現代日本社会に目を転じてみれば、マスメディアは事象そのものより
物語性を重視した報道に重点を置く傾向が強まってきている気がする、
読者視聴者の興味を惹くように、よりレアなモノガタリを追う方向へ。

個人的には、発生した事故や事件の速報と並んで、その後の情報など
重要だと考え欲しているのだけど、そういうメディアは残念なコトに
多くはないし、あってもゴシップ方面で掘り下げてたりして辟易する。

ここ数年ほど目につくようになった、デマが出来て広まっていく過程
などにも、そういう傾向が強く関係しているような気がしてならない。
需要が先か供給が先か、いや発端が何方だろうと相互作用で拡大する。

たぶん何かで破綻するか、皆が一斉に飽きるまで、これは止まらんな。

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