« 夢に映される期待感 | トップページ | 記録は固定する行為 »

2014/05/18

時代のキモチの記憶

20140518_epsn0978s


記憶は当人が自覚しづらい部分で書き換えられ改竄されてしまうもの。
記憶情報というのは割と容易に書き換えられてしまうものであるとは
最近それなりに知られてきたコトであると思うが、それは個人の記憶
だけのコトではない、集団としての記憶たとえば常識についても同様、
それは「にんべんの夢」、儚く消えては新たに生まれ移ろいゆくもの。
とかポエムっぽい書き出しではあるが以後の内容は普段通り面倒臭い。

では本題。親世代が何らかの理由で日常的に行ってたコトを子供らが
風習として受け継いでいたりするのは、よくあるハナシ。さらにその
下の孫世代になれば、もはや伝統として受け継がれていたりするもの。
たとえば、ある友人の両親は満州からの引揚者で、よく餃子を作って
おり、おかげで「餃子の皮など市販されてなかった頃から」家族皆で
餃子を作るのが普通、さらに子供たち世代も同様の感覚であるらしい。

昔のコトについて母と話をしていたら、父方の祖父が町工場を経営し
ていた(零細ではあるが)おかげで、近所では一番早く電話を引いたし、
我々兄弟は誕生間もなく、産院から実家への帰宅で自家用車に乗った。
気付けば成人する頃には「免許を持つ家族一人に一台」という台数で、
最寄り駅まで自転車で15~20分、バス停でも徒歩10分の農村地帯では
そのくらいの車を所有するのも珍しくないと思うくらいになっていた。

--
迷信でも宗教。たとえ発祥がガセネタだとしても、「そう信じてそう
扱う/振る舞う人」が相当の割合で存在するようになれば社会的には
「そういうもの」として扱われる。そんな性質が、ヒト社会にはある。

「政権交代によって失われた江戸時代の人の善き風習」みたいなのが
流布されたり、小説や漫画の中の表現として使われてたのが、まるで
歴史的事実であるかのように「常識化」していってしまうコトがある。

どのくらいの古さまで伝統だとか風習として社会に受容されるのかと
考えてみたんだけど現行憲法下になってから輸入されたようなのまで
定着してる有様をみると、時期的な要素だけでは決まらないのだよな。

しかし概ね維新前くらいが境界線だと考える人は多いだろうとも思う。
そんなイメージを逆用し、それなりに知識を持っていると自負する者
たちにウケそうな筋書をつけて流行らせたのが「江戸なんたら」とか。

社会を構成する相応程度の人々が「そういうもの」と認識するように
なれば、もはやそれが実際に嘘や虚飾にまみれていたとしても社会の
アタリマエとして蔓延ってしまい、容易に覆せなくなってしまう一例。

まあしかし、そんな嘘や虚飾が必ずしも永続的に残るとは考えづらい。
情報記録が残らない時代ならともかく膨大な情報(ノイズも多いが)を
蓄積し続ける現代社会、世代や時代の移ろいにより是正の機会もある。

ただし、迷信や誤解が払拭されたとしても、「そういうもの」として
扱われた過去の経緯や、それによる影響まで払拭できるワケではない。
記録を蓄積していくというのは、その検証をも可能にするというコト。

|

« 夢に映される期待感 | トップページ | 記録は固定する行為 »