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2014.07.02

任せられぬ故の不安

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サービスエリアで事故渋滞に閉じ込められたとき、「途中で下ろして
くれないのかしら、急ぐ人はどうしたらいいの」などと叔母が口走る。
何もせず待つしかない状況を受け容れたくなくて発した言葉であろう。

道路会社の車両によるアナウンスから推測される状況を、母と二人で
「ここから出口までの間で事故があり、一時間ほど待てば処理が済む
見通しだし、出そうと思えば出せなくはないが余計な混乱を招くだけ
だから待たせているのだろう」といった具合に、代わる代わる説明し、
「何も知らぬ素人が思い付くコトくらい道路会社は考えているはずで、
そうしないのには何らかの合理的な理由があるんだよ」と言い添えた。

漠然としていて解決策もないような不安感を表明する行為というのは
要するに周囲が上手くやってくれるとは期待していないコトを示して
いるワケで実は周囲に対して失礼な行為なのではないかと考えた次第。

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もちろん不安が周囲に対する不信に通じるものという自覚などなくて、
ごく単純に、それこそ童心の如く無邪気な無知から発したものと思う。
いや正しくは、童心の如く無邪気な「他者の心理を顧慮しない」意識
から発したものか、いずれにせよソレが何を示すかなんて自覚はない。

でも、たぶんそれが苦手なのだ。振り返れば父方の祖母がそうだった、
その性質は父や叔母にも見事に受け継がれているのは、見ての通りだ。
だから自分の中にも同様の感覚があるはずで、それもまた嫌なもので。
また信じないという姿勢は安易に過ぎ、そこに甘んじかねない懸念も。

ただ、母方の祖父母から受け継いだ別の面に、そこは助けられている。
「自分より上手くできる人が既に動いてくれているなら信じて任せる」
基本はこれだ。もし居合わせてしまったなら自分も率先して動くけど、
そうでない状況では敢えて動いて邪魔になるようなコトは、避けたい。

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