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2015/05/12

滝の川の流路の考察

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ちょっと思ったコトがあるので先日歩いた石神井川についての復習を。

この川は(地質学的スケールでの)最近まで飛鳥山の西側を流れていて、
その水量で現在の「谷根千」とか不忍池へ繋がる谷間を形成していた、
という姿が地形から読み取れるワケだが、しかし流路が切り替わった
時期や理由については諸説ある。大別すれば自然か人為か、であるが、
文献には直接の記録が存在せず、どちらにせよ決定打に欠けるとの由。

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滝野川という名称が文献に見られるようになるのは中世頃からという。
そこから、その少し前くらいに人の手が加わったことで大川の段丘を
下る「滝の」川になったのではないかとする説に繋がっているようだ。
しかし、その頃に誰かが工事を行ったというのなら、文献はともかく
少しくらいは言い伝えのような形で残っていたりするようにも思える。

今の段丘崖から数百メートルほど西、紅葉寺の別名を持つ金剛寺には、
頼朝が挙兵して安房を経て鎌倉へ向かう途上に滞在したと伝えられる。

このとき近くの崖下の洞窟に祀られてる弁財天に祈願したとのことで、
弁天像は弘法大師の作ともいう。そのあたりが渓谷の姿となるまでに、
段丘崖に落ちるようになってから川底の浸食が進むだけの期間が必要
なはずで、文献どころか口伝も残らぬ往古とみた方が自然な気がする。
(まあ頼朝や弘法大師のハナシも言い伝えと言ってしまえばそれまで)

そして、さすがにそこまで時代を遡ってしまうと人間社会の力は低く、
人為である可能性も低下してくる。自然の力と考えるのが無難っぽい。

もう少し凝った筋書きを書くとしたら、自然と人為の複合もあるかも。
大川は氾濫を繰り返した川、そのたびに段丘崖は後退していったはず、
そうして石神井川の流路と大川段丘崖の距離が極めて狭まったトコロ、
最後の一押しで人間が壁を切り崩し、そこから下流にあった河川敷を
干し上げて水田として利用する、くらいのコトは行ったかもしれない。

もちろん、こんなハナシは単なる一つの妄想だ。けど、たぶん今後も
確たる証拠は得られそうにないので、推理で楽しむくらいは良かろう。

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