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2015.12.15

「話せば」、分かる?

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誰か特定の相手に向けて話をするときの選択肢の多さと、それに対し
不特定多数に伝わるコトを意識して記す文章における選択肢の少なさ
は表裏一体、相手の反応が見えるか見えないか、という要素が大きい。

話が盛り上がり、できれば上手くオチがついたりしてくれたら嬉しい、
といった方向性で会話に臨むのが常なので、話し相手の反応などから
どんな風に受け取られているのかを意識しながら対話しているつもり。

少なくとも面と向かって話し合う場にいてくれる以上、何らかの相互
理解を相手も期待しているはず(一方的な押しつけでなければ、だが)。
そんな前提が信じられる限りは、意見が食い違っても対話を楽しめる。

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ソーシャル()はもちろんマス()でも、「ある程度は共通の認識を持つ」
相手を対象としているのがメディアというもので、いや遡って言えば
人間の吐き出す言葉そのものがそうなのだから致し方ないのだけれど、
だからこそ反応の読めぬ相手にも伝えんとする挑戦は、しがいがある。

少なくとも互いに敵を「反知性」などと言い合うよりはマシなはずだ。
ていうか、その手の決めつけは対話の断念≒敗北宣言だったりしない?

といっても、そういう感想を平然と持てるのは他者から距離を置いて
感情的に同調してしまうのを回避する姿勢でいるからかもしれないが。
でもそうしないと言葉での「ハナシ」にはならないんだよね、たぶん。

まあ「面倒になったとき逃げ出しやすい」という利点もあるかもだが。

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